先月、ある古書即売展で古山高麗雄の「片乞い紀行」という本を買って読み始めた。この本のあとがきに、
「昭和四十七年の暮に、私はヨーロッパ旅行をする機会に恵まれた。そのときの旅行記を「風景のない旅」という題で萬玉さんに編集してもらったので、今度も萬玉さんにお願いした。この「片乞い紀行」は、国内の旅行記だが、「風景のない旅」の姉妹編のようなものである。」
と書かれていた。(ふぅん、「風景のない旅」かぁ。いつか古本で見つかるかな)と心の片隅で思ったことである。その「風景のない旅」を、昨日、阿佐ヶ谷の新古書店で見つけた。手に取ってみて、(やったー!)と思うのもつかの間、見覚えのある装丁なのである。これは、どこかで、よく見ているような。
………なんだ、元我堂にあるじゃん!しかもこの1年半、ずっと目にしてたよ!手にも取ったよ!なんで気づかないの!……タイトルも著者名も見ているのに、記憶に刻まれていないだった。見ているつもりで全然見ていないのね。知らず知らず目が節穴になって、ものを見るとき心が開いていない。これはただ注意力散漫なだけ?それとも老化現象でしょうか?少なからずショックを受けた。ああ、信用ならないのう。
私も自分の脳が信用できないこと多し。
よその店では目に入ってくるのに、
いつもいる元我堂では見えてないっていうのが
なんとも悔しい。
思い込みって怖いです。