2009年08月15日

■おじいちゃんの戦争体験

我が家のおじいちゃんが、近所の中学生に頼まれて書いた戦争体験の手紙を再録(※1)します。おじいちゃんは大正15年生まれ。いわゆる「銃後」からの体験記です。

÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷
--<前文略>--大東亜戦争の始まる前から、食べ物が食堂などで何だか自由に食べられなくなり、やがてお米は配給制になり自由に買えなくなりました。
食堂で食べる場合も外食券という、国が発行する切符を持っていないと食事が出来なくなってきました。(実は戦争を続ける為に必要な物もお金も技術の力も、アメリカ・イギリスなどと比べると大変に貧乏であったのですが国民は殆ど誰も知りませんでした。)

さて陸軍や海軍の発表するニュースを聞いて国民が戦争に勝ち続けているものと思っている内に、もし敵に爆撃された場合に助かる為に庭に穴を掘って逃げ込めるような防空壕を各家庭や職場に作るようになって来ました。こんな各家庭に掘った防空壕では直接爆撃されたら助かりはしなかったのですが、それでも瀬戸物や衣類をその穴に埋めて戦災(火災)から守ろうとしていました。

昭和17年には本当にアメリカの艦載機が日本に飛んで来て空襲されました。益々食料も品物も不自由になってきました。それで国は「欲しがりません勝つまでは」という標語を作って国民に不自由を我慢させようとしました。

昭和18年には敵の言葉は使ってはいけないと例えば野球でストライク・ボール等と言えなくなりました。上野の動物園では空襲で逃げ出しては大変と猛獣たちを毒薬で殺したと聞きました。大学上級生も兵隊になって戦争に出て行きました。

未だ我々には確かな事は判りませんが、東京の街のあちらこちらの建物が取り壊されて行きます。これは強制疎開と言われました。昔の江戸では「火除け地」と言った、延焼防止地帯を作っていた訳です。これはどうも戦争はあまり有利では無いらしいと思いましたよ。

その時おじいちゃん(当時18才)は、お母さんと二人で東京牛込神楽坂の上の方に住んで居ましたが、戦災で全てが燃えてしまうのではないかと思いました。埼玉県熊谷の農家からリヤカーを借りて勿論一日中歩いて引いて来ました。足はまめだらけでしたよ。次は箪笥や茶箪笥等を載せて二人で中山道を歩いて家具衣類の疎開をしました。途中北本宿の農家の庭先に野宿して熊谷に預けに行くと言う、江戸時代のような作業でした。

昭和19年以降、さあもう東京の人の外食は雑炊しか食べられなくなりました。それもお昼になるといつまでも並んで待ってやっと食べられるのです。アメリカの爆撃機B-29が一万メートルもの高空を飛行機雲を引きながら、東京の空に飛んでくるようになりました。味方の高射砲は届きません。戦闘機が飛び上がって行っても一万メートルには飛び上がれません。こうして何回も来て航空写真で地上の様子を全て観測して行ったのだそうです。技術力の差ですね。

この頃から小学生を田舎に疎開させようと言うことになったようです。子供達が親のもとから離れて田舎の農家などに大勢で引っ越すのです。おじいちゃん達はもう直ぐ軍隊に行くような歳の人だから勿論疎開はしませんが、同級生の弟たちは疎開して行きましたよ。

さ、それからアメリカの飛行機による爆撃が激しくなりました。なぜこんなに激しく空襲されるのか?日本はもう負けたのではないか?然しラジオの放送は何時も日本が勝っているような放送です。夜は灯火管制で電灯に黒い布を掛けてじっと外に光が漏れないように。漏れると敵の爆撃の目標になると、無事に朝が来ることを祈っているような日々でしたよ。(でもアメリカ側には測量写真とレーダーのデータがあり、どうしようもないのでしたが)

的確に焼夷弾が花火のように降りかかってくる。隅田川の向こうの地域は殆ど全部火災で全滅(家屋が)、一晩中赤々と真昼の様でした。おじいちゃんの無機化学の先生もこの夜亡くなりました。

昭和20年5月25日の爆撃でおじいちゃんの家も焼けて戦争被災者になりました。毛布だけを国から支給されて家なしになりました。この日一緒に家を焼かれた人達はみな同じように浮浪者の様に煤けた顔と、煙で開けていられない真っ赤に痛む目をした焼け出されです。

隣の家の娘さんが逃げ遅れて家の下敷きになり、何日も人が焼けている異臭があたりに漂っていました。近所には逃げ遅れて焼け死んだ黒焦げの人の死体が沢山ころがっていました。戦争の間はあまり無惨に感じている心の余裕がありませんでした。戦後銀座の焼け跡の防空壕の中に黒こげの死体を見てギョッとしたものでした。この人達も戦争さえなければ、今日も無事に幸せな生活を送っていたはずです。

一方アメリカの兵隊さんもB-29爆撃機が撃ち落とされて捕虜になり、酷いめにあった人もいたようです。戦争はどちらの人にも不幸をもたらしています。人々に何のプラスももたらしません。平和な世界が大切なのに人類はいつ迄もいがみ合いをやめませんね。

君たちの夏休みに毎年巡ってくる、あの原爆記念日の恐ろしさを考えながら、次にまた良く纏めて経験をお話して参考に致しましょう。
÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷÷

(※1)2000年に私が運営していた個人ホームページに掲載したことがあります。
posted by 店主かねこ at 07:00| Comment(2) | TrackBack(0) | □路地裏縁側日記 | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
銃後であろうと実際に戦争を体験された方の声に耳を傾けることは、とても大切なことだと思います。たとえ伝聞という形であれ、戦争を知らない世代が語り継いでいくことを忘れてはならない、風化させてはならないと思います。
か猫さんがおじいさまの体験談を披露してくれたことに感銘を受けました。
この時期はとくに「戦争」のことを考えます。必ず読み返すのが、神坂次郎『今日われ生きてあり』(現在・新潮文庫)。23年前に初めて単行本で読んだ時、大きな衝撃を受け、涙が止まりませんでした。今読んでも胸を抉られます。
Posted by 風太郎 at 2009年08月15日 21:23
風太郎さん、コメントありがとうございます。

70代〜80代以上の身近な人が、ほとんど語ってこなかった戦争体験をそっと胸にしまっているのだと思います。ぽそっと漏らされる小さな体験談を、注意深く聞くように心掛けたいと常々思っています。

この手紙を何度も読み返していますが、「熊谷の農家でリヤカーを借りて」という部分、リヤカーなど東京にもたくさんあった時代なのにどうしてわざわざ、と考えますと、近所で借りられない(もしくは無い)状況というのが、とても恐ろしく思われます。

『今日われ生きてあり』は未読ですが、わたしもこの時期、もっと知っておきたいという思いから戦争体験に関する本を手に取ることが多いです。機会があれば読んでみたいです。
Posted by か猫 at 2009年08月15日 22:12
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]


この記事へのトラックバック